富士山文化――その信仰遺跡を歩く(祥伝社新書325)
によって 竹谷 靭負
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富士山文化――その信仰遺跡を歩く(祥伝社新書325)の詳細
本のタイトル : 富士山文化――その信仰遺跡を歩く(祥伝社新書325)
作者 : 竹谷 靭負
ISBN-10 : 4396113250
発売日 : 2013/7/5
カテゴリ : 本
ファイル名 : 富士山文化-その信仰遺跡を歩く-祥伝社新書325.pdf
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◎御師(おし)という人々がいた。伊勢神宮に関して、司馬遼太郎さんが書いた文章の中に簡潔に説明されている。「御師たちは世間から、「大夫さん」と呼ばれて親しまれた。かれらは貴族ではなく、庶民の出身で、実質としては参詣客を泊める宿屋の亭主であった。神宮のお札などをくばり、頼まれれば祈祷などもする。かれらは諸国を分担して、はるばるとお札くばりに出ていったこともあり、のちには御師の手代ぐらいの者が自分の担当する国を歩いた。かれらが、諸国で伊勢講を組織し、「ぜひ、お伊勢参りを」と勧誘してまわった。・・・その御師も、明治の時、神宮が国家神道の中心に組み入れられたさいに消滅した。」(「街道を行く夜話」pp137-138朝日文庫)。色々調べてみると、伊勢講の場合は、「おんし」、富士講の場合は「おし」と言っていたようだ。「御祈祷師」を略したのだとも言われている。富士山にお参りする、「富士講」の御師は数はだいぶ減ったが、宿も民宿経営に鞍替えしたりで、まだ存在する。宿の一部は世界遺産。竹谷(たけや・ゆきえ)氏は、吉田口の御師の末裔だそうで、理系の大学教授だが、本業以外に富士山関係の本を沢山書いている。世界文化遺産となった富士山だが、「富士講」の背景あたりを知るには絶好の本だ。なるほど!と思った点をいくつか挙げてみると;*富士山に行けない人のために「富士塚」(富士山のミニチュアの小高い丘・・)が各所につくられた。その数、約200。国や地方自治体から文化財指定を受けたものは68基。(そのいくつかを巡って拝むのも流行っていた。)⇒著者は、これも「富士山関連の文化遺産」で本来世界遺産に含まれるべきだったと主張。*富士山遥拝所というのもあった。吉田口には女人専用の遥拝所もあった。・・これらは廃れてしまったものも多いが、各種の「伝説」が残っている。*登山には、これまで8ルートあったが(p162)、中には、その後の鉄道、バスの発展で廃れたものもある。*富士山御師は、戦国時代から時の権力に重用されていた。中には武田家の諜報活動に従事していたものも居た。(檀家廻りで、庶民だけでなく武将の住居や城内にも自由に出入りし、祈祷などを行えたので・・。)*江戸から富士山に行く場合は、大抵、往路に高尾山(飯綱権現)、復路に大山(おおやま)(石尊(せきそん)権現)も訪れ、「三山詣(さんざんもうで)」とした。・・「精進落とし」で、帰路、遊んで帰るのも楽しみだったようだ。
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